哲学ノート

日々の思考や感情、趣味について取り上げ、哲学しようという試み。

断章

 

最初の投稿から 一年が経ったらしい。

不定期更新とはいえ、

ここに記したいことがある。

最近メモ帳にかきあげてきた断片的な俺の哲学をここに記す。

 

 

 

嫌われたら嫌われた分だけ、好かれれば良いのだ。… ということを言った哲学者がいる。といってもその哲学者は有名な哲学者ではないが。この哲学は彼にとって1番の座右の銘なのだ。

 

 

俺は他人との矛盾を探すことが癖なのだ。つい先日、それがある瞬間、自己中心的だという思考に導かれた。そしてそれに気付いた俺に 例えば誰かが、「その通りだ」と言ったとすると、その人は自分が自己中心的であることに気が付いていない。その通りだということは自分が自己中心的でないことを断言することと同じだからだ。だがその時点で俺もまた、自己中心的になっているということに気づく。気付いているのと気付いていないのとでは雲泥の差だが、他人との矛盾を探して自分と比較するのは時間の無駄だと気付いた。といっても、あくまで思考の段階での話なのだが。

 

 

自己主張の激しい人を最近よく見る。そういう人を見ていると、自己主張が激しくなくて良かったと時折思うことがある。お喋りなのと自己主張が激しいというのとは対になっている気がする。自己主張があるということは積極的で個性的ともいえるが、自己主張が激しいのは ただの自分勝手なのだ。自分のことしか考えていない、というより、主観でしか物を見られないということだからだ。「私が客観的に思うことだけど」と前置きを置いたところで 一向に主観的なのだ。まずは周りの意見を聞き、本当に意見が無いのかどうか釘を刺したところで、自分の意見を述べるのが基本では無いだろうか。

 

 

 

不満とは何かについて考えた。不満とは自分が嫌だと思うこと、というのは誰でもわかるが、コレはどう見ても自己中心的だ。不満とは、言い換えれば、周りの人々に対する欲望と捉えることもできる。

 

不満に対しての自己主張が激しい者は、自己中心的で自分勝手だと、自分で気づくことだ。だが、一向に気づくことはないだろう。理論で理解できない者は多数いる。自分の頭の中だけで処理してしまうのだ。相手の頭の中がどうなっているかを分析することもなくだ。その時間が無駄だと考える。だが、無駄なことなどない。ライプニッツモナドはこの思考を断ち切って変形させる。無駄などないのだ。逆に言うとするならば、そもそも無駄なことを、わざわざする動物など、この世に人間しかいないだろう。人間は無駄なことを、有用なことだと勝手に思ってしているのだ。これは矛盾なのだ。ひとえに、物事を純粋に捉えるならば、無駄なことなど無い、というわけなのだ。

 

人間は無駄な動物なのか?無駄かどうかあーだこーだ、コレは全部無駄だ、とか考えることそのものが人間らしいのだ。そうしてまた論じていることが人間らしいのだ。そうして苛々とする、またそれも人間らしいのだ。

 

この頭の中を整理していく作業は、このようにメモを取る、ということしかないのだ。自分のことは知っているようで知らない。そして、自分の考えを述べることはできても、自分をPRするのは難しい。面接ではPR出来ていると思っているそこの君。それはPRではない。良い部分だけをピックアップして良いイメージだけを残す面接は俺は嫌いだ。そんなの面接じゃない。良いイメージしかない奴を俺は取りたくはない。もし俺がカフェの店長、社長ならば、欠点がある奴を取る。ちょっと間抜けな奴を取る。とにかく面接が下手な奴を選ぶ。

 

俺は今、猛烈なストレスを抱えていると推測する。そして、その猛烈なストレスは全て自分が作り出した ということを知っている。

 

さてそこでだ。まず、人にはストレスというものがある。そしてコレを解消しようとする全ての人々の何割かは、癒しの音楽を聴いて精神を和らげる、と言うだろう。

 

癒しの空間や音楽に漂うと、その身体や精神はリラックスモードになる、リラックスモードにはなった。ふむ。だかしかしだ、不満を、つまりストレスを消化したことにはなっていない。つまり、頭が硬くなるのは時間の問題なのだ。

 

 

では頭が硬いとは、一体どういうことなのか?

例えば誰か他人に向かって、頭が固いと言うとき、それは自分の鏡だと思った方が良い。コレは自分に言っているのだ。俺自身が1番、それを変えなければならないが。というと、じゃあお前は頭が悪い、とか硬いとかほざく奴がいる。となると、そこも一周回って自分のところにたどり着く。つまり鏡だ。自分に返ってくる。自分のことを表す言葉、それが人に「バカだなぁ」とか「本当にお前はなぜわからない」とか「頭が硬いな」という時なのだ。頭が硬いと人に言うということは、そっくりそのまま自分の頭が硬いということだ。よく考えろ。もし自分の頭が柔らかいと断言出来ると言うのならば、そいつは相手のことを理解できるはずなのだから。頭が柔らかいとか硬いとかは、結局のところ、自分に合うか合わないか、というのと変わらない。それはかなりの自分勝手だ。

 

 

 

 

 

徳の講壇

今日は ニーチェツァラトゥストラから、
僕の大好きな 徳の講壇を取り上げる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ツァラトゥストラは1人の賢者の名声を聞く。その賢者は眠りと徳とについて説くことが巧みで、高く敬われていた。その賢者の講義は 僕にとっての癒しを作り、日常を作り出してくれる。以下は 中公文庫 ツァラトゥストラからの引用である。


眠りに対して 敬意と羞恥の心を持て。これが 根本のことである。そして よく眠らぬ者、夜も目覚めている者を避けよ。
盗人さえ 眠っている者には恥じらって、夜は いつも足音を忍ばせて歩く。恥じらいのないのは、夜の見張り人である。恥じらいもなく 彼は角笛を持ち歩く。
眠るということは、決して容易なワザではない。眠るためには、終日 目覚めていなければならぬ。
十度、お前は昼の間に 自分に打ち克たなければならぬ。それは 快い疲労をもたらし、魂の麻薬となる。
十度、お前は自分との和解を取り戻さなければならぬ。自分に克つことには 不満が残るから、和解を済ましていない者は、よく眠ることが出来ない。
十の真理を お前は 昼の間に見出さなければならぬ。そうでないと、お前は 夜も真理を探し求めることになる。それでも お前の魂は空腹のままである。
十度、お前は 昼の間に笑って、快活を保っていなければならぬ。そうしないと 夜になって、憂愁の父である胃が、お前の安静を乱すだろう。
次のことを知る者は少数である。よく眠るためには、あらゆる徳を持たなければならぬ。この私が偽証をするだろうか。姦淫を行なうだろうか。
隣人の端女に色情を起こすだろうか。それら全ては 良い眠りと相容れないものである。
さらに、たとえ我々が 全ての徳を所有しているにしても、我々は なお一つのことを 心得ていなければならぬ。それは 徳をさえも、適時に眠りにつかせることである。
この しとやかな女たち、あれこれの徳が、互いに いがみ合いを始めぬために、である。お前を奪い合う、その いがみ合いが始まったら、その時のお前の不幸は 目に見えている。
神、そして隣人と平和を保て。良い眠りはそれを要求する。そして隣人の うちにひそむ悪魔とさえも 平和を保て。さもないと、その悪魔は 夜な夜なお前の ほとりに出没して、お前を煩わすことだろう。
官庁を敬って 服従するを忘れるな。たとえ歪んだ官庁でも。良い眠りは そのことを要求する。権力は好んで ねじけた歩き方をするが、それを私がどうすることが出来ようか。
自分の受け持つ羊の群れを もっとも 緑の濃い野に導いてゆく者、これを私は 最良の牧人と讃えよう。そういう態度は 良い眠りと親交の間柄にある。
多くの名誉を 私は欲しない。また大きい財宝も欲しない。そういうものは 脾臓に炎症を起こさせる。しかし、何かの良い評判と いささかの財宝がなくては、良い眠りは やって来ない。
小さい範囲の社交は、私には 悪質の社交より好ましい。しかし、その社交は、私を妨げないよう、時を得たものでなければならない。そうすれば それは良い眠りと調和する。
心の貧しい者たちも、大いに私の意にかなう。彼らは 眠りの保護者である。彼らは 極めて幸福である。ことに 彼らの在り方が 周囲から いつも是認されているような場合には。
徳の所有者は このように 昼を過ごす。さて夜が来ると、私は眠りを呼ぶことは 心して避ける。もろもろの徳の主である眠りは 呼ばれることを欲しない。
眠りを呼ぶことはしないで、私は昼の間に 私がしたこと、考えたことを考える。反芻しながら 私は自分に尋ねる、牝牛のように我慢強く。お前が お前自身に打ち克った十のことというのは 何であったかと。
それから あの十の和解、十の真理、私の心を くつろがした十の笑いは、何であったかと。
このようなことに思いを巡らし、四十の思いに揺すぶられていると、ふいに、あの呼ばれぬもの、もろもろの徳の主である 眠りが、私を襲うのだ。
眠りは 私のまぶたの扉を叩く。と、まぶたは重くなる。眠りは 私の口に触れる。と、私は放心して口を開ける。
まことに、音もなく足を運んで、彼は私のところに やって来る、盗人のうちの 最も愛すべき この盗人は。そして 私の思念を奪う。愚かしげに 私はじっとして動かない。この講壇の卓のように。
しかし、いつまでも 私はじっとしてはいない。私は すぐ横になる。


今日の1日は終わった。
充実した1日だった。

存在は自分が確認するものではない。
自然が確認するものなのだ。

どんな日にも明日は来る。
ただ、そこに自分がいるか、
いないかというだけのことだ。