哲学ノート

日々の思考や感情、趣味について取り上げ、哲学しようという試み。

徳の講壇

今日は ニーチェツァラトゥストラから、
僕の大好きな 徳の講壇を取り上げる。
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ツァラトゥストラは1人の賢者の名声を聞く。その賢者は眠りと徳とについて説くことが巧みで、高く敬われていた。その賢者の講義は 僕にとっての癒しを作り、日常を作り出してくれる。以下は 中公文庫 ツァラトゥストラからの引用である。


眠りに対して 敬意と羞恥の心を持て。これが 根本のことである。そして よく眠らぬ者、夜も目覚めている者を避けよ。
盗人さえ 眠っている者には恥じらって、夜は いつも足音を忍ばせて歩く。恥じらいのないのは、夜の見張り人である。恥じらいもなく 彼は角笛を持ち歩く。
眠るということは、決して容易なワザではない。眠るためには、終日 目覚めていなければならぬ。
十度、お前は昼の間に 自分に打ち克たなければならぬ。それは 快い疲労をもたらし、魂の麻薬となる。
十度、お前は自分との和解を取り戻さなければならぬ。自分に克つことには 不満が残るから、和解を済ましていない者は、よく眠ることが出来ない。
十の真理を お前は 昼の間に見出さなければならぬ。そうでないと、お前は 夜も真理を探し求めることになる。それでも お前の魂は空腹のままである。
十度、お前は 昼の間に笑って、快活を保っていなければならぬ。そうしないと 夜になって、憂愁の父である胃が、お前の安静を乱すだろう。
次のことを知る者は少数である。よく眠るためには、あらゆる徳を持たなければならぬ。この私が偽証をするだろうか。姦淫を行なうだろうか。
隣人の端女に色情を起こすだろうか。それら全ては 良い眠りと相容れないものである。
さらに、たとえ我々が 全ての徳を所有しているにしても、我々は なお一つのことを 心得ていなければならぬ。それは 徳をさえも、適時に眠りにつかせることである。
この しとやかな女たち、あれこれの徳が、互いに いがみ合いを始めぬために、である。お前を奪い合う、その いがみ合いが始まったら、その時のお前の不幸は 目に見えている。
神、そして隣人と平和を保て。良い眠りはそれを要求する。そして隣人の うちにひそむ悪魔とさえも 平和を保て。さもないと、その悪魔は 夜な夜なお前の ほとりに出没して、お前を煩わすことだろう。
官庁を敬って 服従するを忘れるな。たとえ歪んだ官庁でも。良い眠りは そのことを要求する。権力は好んで ねじけた歩き方をするが、それを私がどうすることが出来ようか。
自分の受け持つ羊の群れを もっとも 緑の濃い野に導いてゆく者、これを私は 最良の牧人と讃えよう。そういう態度は 良い眠りと親交の間柄にある。
多くの名誉を 私は欲しない。また大きい財宝も欲しない。そういうものは 脾臓に炎症を起こさせる。しかし、何かの良い評判と いささかの財宝がなくては、良い眠りは やって来ない。
小さい範囲の社交は、私には 悪質の社交より好ましい。しかし、その社交は、私を妨げないよう、時を得たものでなければならない。そうすれば それは良い眠りと調和する。
心の貧しい者たちも、大いに私の意にかなう。彼らは 眠りの保護者である。彼らは 極めて幸福である。ことに 彼らの在り方が 周囲から いつも是認されているような場合には。
徳の所有者は このように 昼を過ごす。さて夜が来ると、私は眠りを呼ぶことは 心して避ける。もろもろの徳の主である眠りは 呼ばれることを欲しない。
眠りを呼ぶことはしないで、私は昼の間に 私がしたこと、考えたことを考える。反芻しながら 私は自分に尋ねる、牝牛のように我慢強く。お前が お前自身に打ち克った十のことというのは 何であったかと。
それから あの十の和解、十の真理、私の心を くつろがした十の笑いは、何であったかと。
このようなことに思いを巡らし、四十の思いに揺すぶられていると、ふいに、あの呼ばれぬもの、もろもろの徳の主である 眠りが、私を襲うのだ。
眠りは 私のまぶたの扉を叩く。と、まぶたは重くなる。眠りは 私の口に触れる。と、私は放心して口を開ける。
まことに、音もなく足を運んで、彼は私のところに やって来る、盗人のうちの 最も愛すべき この盗人は。そして 私の思念を奪う。愚かしげに 私はじっとして動かない。この講壇の卓のように。
しかし、いつまでも 私はじっとしてはいない。私は すぐ横になる。


今日の1日は終わった。
充実した1日だった。

存在は自分が確認するものではない。
自然が確認するものなのだ。

どんな日にも明日は来る。
ただ、そこに自分がいるか、
いないかというだけのことだ。